今国道244号が超える知床半島の付け根を突っ切る
斜里-標津間の根北峠を越えようとする鉄路があった。
それが根北線である。
実際には斜里-越川の12.8キロが昭和32年に完成したのみで
昭和45年に赤字ローカル線としてそれすら廃止されてしまった。
その国道244号を越川から根北峠方面へちょっと走ると
この有名な越川橋梁が現れる。ここは越川以遠の未成区間である。
現在登録有形文化財に指定されているこの陸橋
正式には「第一幾品川橋梁」という元10連のコンクリートアーチ橋で
国道の拡幅時に3連分が取り壊されて
斜里側6連+標津側1連になっている。
こちらは斜里側の6連部分。
同じく斜里側6連。
こうやって見ると橋は右カーブを描きながら
急な上り坂になっていることがわかる。
橋は長さ147mで勾配は25‰と未電化ではほぼ限界こう配である。
道路の反対側の標津側。
覆い茂ってしまった樹木で先は見えないが
この1連のみである。
ただこの先の土手にはこのままではつながらないため
本当はもう1連プラスの11連になる予定だっという話も・・。
この陸橋の標津側に並行して道があるのだが
固く門が閉ざされていて残念ながらこの位置までしか行けない。
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話変わって旧湧網線の跡地を利用した
網走常呂自転車道(オホーツク自転車道の一部区間)である。
湧網線の内、網走の大曲から所の手前までの区間が
ほぼそのまま自転車道になっている。
大曲からしばらくはこのように国道の脇の森林の中を走る。
卯原内の駅跡に保存されている道東のキューロク。
この風光明媚な湧網線を走ってたであろう北見のカマ。
大正 9年8月川崎重工兵庫工場で製造
昭和 8年4月 原の町
昭和20年9月 北見
昭和45年3月 北見で廃車
と北見所属が非常に長い機関車である。
北海道のキューロク特有の前面デッキの
柵状の手すりは現役の時には装備されていたようだが
今現在は取り外されているようだ。
キャブにはボイラー交換の証が(ボイラーは59696)。
ちなみに59696の廃車は昭和49年3月に稚内なので
59696はまた違うかものボイラーに
載せ替えていたのではないかと推測される。
こんな感じでオハ47508とつながっていて
ホームとともに保存されている。
客車の色や表記の微妙車は仕方がないにせよ
定期的に塗り替えなどのメンテはされていて
寒風吹きすさぶ塩湖のすぐ脇の保管の割には
状態は悪くない。
昔は車内の一部が畳敷きか何かに改造されていて
宿泊も可能だったが今は車内には入れなくなった。
車内は原型に戻されているようだ。
窓側にもある手すりと通路側せずりの頭持たせが
元急行用客車の証として残る。
ただ手すりや壁も含めて茶色く塗られているが
本来の色は灰色で決して木造ではない。
混合列車の多い道東の客車の特徴となるこの温水暖房装置。
これが装備されたことによって
間に貨車が挟まって機関車から暖房感が引きとおせなくても
蒸気暖房が使えダルマストーブがお役御免になった。
お決まりの駅名標。
そして7キロくらい走ると能取の駅跡。
ここは昔は交通公園として整備されていて
スハフ42の保存と駅舎跡地のゲートボール場があったのだが
車両は解体され、ゲートボール場は草ぼうぼう
ホームは崩れかけとすでに忘れられ始めており
そのうちに地に帰ってしまうのであろうか?
線路跡自転車道は能取を過ぎると
坂を上って能取湖からオホーツク海に出る。
右奥が能取方面。
常呂手前の常呂川を渡る橋は当然残っていないので
その手前で自転車道は線路跡から離れて道道の歩道と共用になる
常呂駅跡
駅舎は廃止後まもなく取り壊され
常呂のバスターミナルちょっと洒落た建物が建ったが
今はこの通りそれも取り壊されて
仮説みたいなトイレの建物が残るのみ。
ここからは100mほど湧網線後の自転車道が復活し
そこで湧網線跡は完全に姿を消す。
自転車道も鉄路と離れサロマ湖栄浦方面へ続く。
道東の鉄道遺産2015終わり。
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