北海道四方山話〜線路は続くよ

国鉄末期の合理化により昭和の末から平成の頭にかけてたくさん路線路が消えました。そのため北海道の鉄路はずたずたに分断され、もはや鉄道のみでは道内を回ることも叶わなくなってしまいました。さて、その廃線後はどのようになっているのでしょう。AyuAyuが見てきた廃線跡を紹介します。

嗚呼・・・朽ち果てるのみ

美幸線:仁宇布駅
昭和60年廃止。国鉄末期には日本1の赤字路線として一躍脚光を浴びた路線。最初は美深〜北見枝幸を結ぶ路線として計画されたが,結局開通したのは、美深−仁宇布間だけ。北見枝幸の近くには工事中で放棄されたトンネルが何個か見受けられる。まさに北海道の赤字路線の象徴といえるのがこの美幸線。まずその生い立ちが、都市間を結ぶ路線として計画されたが、途中までしか出来なっかったというのもそうなら、廃線後も何か保存しようとするも、中途半端であれ放題。草ぼうぼうのホームには何故か一度も北海道を走ったことのない、583系電車の中間車が一両カバーをかぶったまま放置してあった。今では誰もその存在すら気がつかない。赤字路線となるべく生まれ、そして朽ち果てた。

追伸・・・なんか美深町がこの仁宇布のあたりの土地を買い取ってあって、今年になっ仁宇布から5キロくらいの区間をトロッコで走れるようになったそうである。そういえば美深市長というのはアイデアマンで美幸線末期に「日本1の赤字線に乗りに来ませんか」とキャンペーンをして一時日本1の赤字線じゃなくなったことがある。もしかしたら583系も何かに使う気では・・・。この辺の情報持っている方、AyuAyuまでご一報下さい。いずれにしろもう一度訪れてみる価値はありそうである。

白糠線:北進
白糠線は当初、白糠−上茶路間であったが、国鉄末期の昭和47年に突如、上茶路−北進間が開通。駅は左股と言うところにあるのだが、北へ伸びよと言う願いを込めて北進駅となったそうである。しかし、11年後の昭和58年白糠−北進間全線廃止となる。無駄遣いの典型のような路線。代行バスも1日3往復だけ!上茶路の駅はキャンプ場になっているが、北進付近は線路をはずしたのみでごらんのような有様。もともと何もなかったところに作った路線だから、このまま朽ち果てて無に帰るのもいいかもしれない・・・。

根北線:越川陸橋
koshikawa.JPG根北線は斜里から標津、根室を結ぶべく昭和12年に着工、32年に越川まで完成したもののそれ以降は未完成のまま45年に廃止になった国鉄末期の赤字垂れ流しを象徴するような路線。この橋も越川以降の未完成部分である。廃止が他の路線より早かったため痕跡はごくわずか。残っていた駅舎も98年には跡形もなく壊され、今ではこの未完の橋が唯一の生き証人。この橋、元は10連 橋であったのが国道の整備の時、2連分壊され現在の無惨な姿になった。

この陸橋正確には何という名前なのかわからないが、斜里から国道244を標津方面へ越川を超えて数キロの所に突如現れる。陸橋のたもとにはこの橋の生い立ちを書いた看板が立っている。近くに越川温泉と言う無料の露天風呂があって、本州のライダーなどがたまに通るのだが、この橋のところで立ち止まる者は皆無である。まさに無かったことにされた遺構なのであろうか。

 

線路は町の繁栄の名残・・・鉄道記念館

士幌線:糠平温泉
帯広−十勝三股間。林業で栄えたこの路線も、林業の凋落と共に衰退。まず十勝三股−糠平温泉間バス代行運転に始まり、昭和58年遂に全線廃止。それとともに糠平温泉も衰退した。西武のスキー場という追い風を利用できず。この廃線跡も線路をはずしただけで、あれ放題だが、糠平温泉駅跡に鉄道記念館が出来ただけでもまだましか。私が行ったときには、年輩の方(昔糠平に住んでいたそうだ)が、懐かしそうに往時を偲んでいられただけで、後は誰もいなかった。

広尾線:広尾駅、幸福駅ほか
愛国から幸福行きの切符で有名になった、広尾線は帯広-広尾間60kmの路線であったが廃止後も様々な形で保存されている希有な路線である。広尾駅では駅舎がバスの待合室としてだけではなく、当時を忍ぶことが可能なように、改札、当時の時刻表、ホーム、客車、気動車など様々なものが保存されている。幸福は前述の通り観光施設として保存されているし、愛国駅も鉄道資料館となっている。まさに、鉄道の歴史が町の歴史として大事にされているようである。
しかし、荒廃が進んでいた広尾駅のキハ22が遂に解体されてしまった。キハ22は軽量化構造のためか、他の客車、機関車より荒廃の進んでいる例が多く、抜本的な対策をしないと、昭和40年代の北海道のローカル線の象徴だったこのディーゼルカーが道内から一両もいなくなる日が来るかもしれない。
 

相生線:北見相生駅
美幌−北見相生間、昭和60年廃止。いつも美幸線と日本1の赤字路線を競っていた路線。今、相生に行くとわかる。なるほどほとんど家がない。北見相生の駅跡は山間にひっそりと佇む。駅舎はバスの待合室として使われているが、ホームにでると、ラッセル車、気動車、客車が今にも走り出しそうな状態で停まっている。また客車はライダーハウスとしても利用されている(エアコン付き、無料!)。また石北線との分岐駅であった美幌では駅舎の一部が記念館としてオープンしている。士別の駅は完全に無くなっており、何処にあったかも分からないほどである。

2000年現在、保存車両の荒廃がかなり進み、キハ22等は車体に穴があきそうである。広尾駅などキハ22の解体が最近多くなってきただけに木になるところである。客車はライダーハウスとして使われているので、屋根の張り替えなど整備は概ね良好。ただ管理をしてくれていたおばあさんが今現在相生に住んでいないそうなので、この後どうなるかは楽観視できない。

平成13年になって国道沿いに出来た「あいおい物産館」建設に伴って駅周辺も整備されキハ22等の保存車両と駅名標も綺麗に整備されたそうである。
RF紙485号より写真
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標津線
厚床−中標津、標茶−根室標津間、100kmにも及ぶ長大路線ということで、廃止が後送りされていたが、平成元年遂に全線廃止。中春別の別海町鉄道資料館のほかはこれといった保存はされず、根室標津の駅はバスの待合室に。他は、中春別あたりの道路の跨線橋が当時を忍ばせるにすぎない。
上行臼駅は今にも列車が来そうな状態で復元保存されている。駅舎の中には廃止のお知らせの張り紙や、時刻表などがそのまま残っている。本当にキハ22あたりが止まっていれば、言うこと無いのだが・・・

しかし北海道じゅう探してもこれほどまで完全に現役時代のまま残った駅舎と言うのもあまり無い。またこの駅が好きで何度も訪れる人もいるようなので、是非キハ22をどこからか調達してきて、きれいに保存してもらいたいと思うのはAyuAyuだけであろうか。

鉄路から銀輪に

湧網線
網走−湧別間、昭和62年廃止。勇網線はほぼ全線がサイクリングロードになっているのではないかと思わせられるほど。能取、計呂地など保存された駅舎も数多い。また卯原内、計呂地等のホームにはよく整備されたSLが保存されていて、今にも走り出しそうなほどである。また、ゲートボール場となった駅もあった。結構サイクリングロード利用者も多く、なかなか好ましい廃線跡である。写真左が卯原内のキューロク、右が計呂地のC58

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函館本線線旧線跡:旭川−神居古潭
廃止線というわけではないが、千歳線の複線化の時に廃止となった旧線跡。約20kmの間快適なサイクリングロードが続く。時折となりを、特急スーパーホワイトアローが通過し静寂を崩すのみ途中のトンネルもほぼ原形を保ち、天井にはSLの煙の跡がついている。伊能と神居古潭の駅は2駅とも残っていて、特に神居古潭は駅舎がきれいに復元され、中は、この地域の資料館となっているほか、いかにも”北海道型”というべき姿の重装備のSLが保存されている。
 

駅から道の駅に!

名寄本線:中湧別駅
名寄−興部−中湧別−遠軽、国鉄末期の合理化はこの長大本線にも及んだ。このように中湧別駅はホームと上屋と踏切が残り。貨車とともに保存され、駅前広場はなんと駅ならず道の駅となっている。



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